沢村貞子のエッセイから読み解く晩年までの過ごし方③

前回のつづき 治安維持法の時代。沢村貞子は新劇女優としての道を選んだが、『働く人がみな幸せになる為に』に賛同し、いつしかアカの活動にのめりこんだ。声を上げると国から弾圧。今もどこかで似たようことはないか?そんな時代に貞子はまた逮捕され…

勇気のジャンヌ・ダルクみたいに

保釈後から一週間ほどしてプロットに連絡がつく。父母の留守をみはからって新築地劇団からSという青年がくる。貞子にその後の劇団の動きをかいつまんで説明した。捕まった人・もぐった人。残った劇団員は必死になって働いているが、手薄だという。〈だから私に15番さんを使って保釈の指令をしたんだ〉しかし、その話をするとはぐらかされた。それが貞子には釈然としない。2~3日後やっと劇場に行く。この間と同様に15番さんの話をだれも信じてくれない。そもそも留置所に入った最初のきっかけ『喫茶室で、共産党青年部加入』がバレて、貞子が否認しなかったことが(驚きのあまりに、とっさに嘘が言えなかっただけ)を委員会には「君のあやまりは君が償うしかない、君の気持ちもわかる…」と言われ、いかにも犯罪者扱いされたことが、留置所や独房の辛さよりも、信じてもらえないことがみじめで悲しかった。一体誰の為に、なんの為に戦って来たのかという思いがうかがい知れ、腹立たしくもあります。貞子が捕まった当時、気丈な母もさすがにショックで倒れたらしく、そこに弟は徴兵される。ダブルショックだです。そのころ劇団女優たちが慰めや励ましに家を訪問して来て、「刑務所で頑張ってるお貞さんは、まるでジャンヌ・ダルクみたい」とフランスの若き女性偉人の名を出し、母を元気づけたらしい。それで母も娘を少し誇りに感じながら、慰められた部分には私も納得いく例えだと思いました。

 

再会と情事

4・5日経って、ある人からの連絡でとある割烹旅館へ行くように指示を受ける。その旅館へ行くと、こじんまりした離れの一室に夫の今村が待っていた。一年ぶりの再会で、貞子をみて、今村は優しく笑ったが、彼の頬はげっそりとこけ、目は鋭くなっていた。「元気で良かったな」と言葉少ないのは相変わらずだった。今村に15番さんの話を信じてもらいたくて話したが、うなづくだけで、心ここにあらずという反応だったと。そわそわして見えたのは、命懸けで再会を果たしたから、警察に見張られてないか心配だったのだと感じます。裁判所で今村との離婚を条件に保釈されたことも本位でなかった・裏切るつもりはなかったと伝えることも出来ず、短い情事のあと、今村は去った。目を閉じるとドラマのように浮かぶ光景です。妄想ドラマ完成(笑)

保釈女優が主役に?左翼の思惑

左翼劇場の創立5周年記念公演に、ソビエトで大成功をおさめた『恐怖』を上演することになり、貞子が主役に抜擢される。本来ならば女優になるために新築地劇団に入ったので、主役は願ってもないことなのに、研究生でろくな訓練を受けないうちに思想活動に浸かり、主役は務まらないと辞退するも、許されず。むしろ貞子を主役にする理由は、ソビエトの名作を保釈女優が主役をつとめる作品として売り出す手段にしたい思惑しかないのだろう。諦めた貞子は稽古にはげむ。もう、逆らうことのできない世界に翻弄されてますね。左翼劇場で保釈中の未決囚、沢村貞子主役の『恐怖』発表は検察局が黙る訳はなく、”沢村貞子を出演させれば、公演は直ちに禁止し、同時に被告の保釈は取り消す“と当局から通達があったため、舞台稽古の途中で貞子の出演は取りやめになる。二人の女優が代役を務める。ここで貞子の本音としては、演技力も稽古日数も足りない芝居を客に見せるのが恥ずかしく、ほっとしたとある。ずっと獄中生活で、訓練も受けられず、芝居の家庭で育ったゆえ、仕事としてきちんとしたい気持ちも強かったのでしょう。そういうプロ意識がのちに分かってゆきます。

裁判

『恐怖』の公演一か月後に貞子の公判が開かれた。前日までに上層部から「裁判長がこう言うからこう答える」と詳しく指導をうける。裁判長の一語一句に徹底的に抗議し、今後の活動を固く誓うことで裁判は中止され、保釈取り消しの手続きをしている間に身を隠し、地下運動に加わること。命令通りに動けばいいだけだった。堂々とやってのけた。その結果、後半闘争の出来栄えは上々で、貞子は主役としてその芝居(裁判)の手ごたえを感じたそう。主役…ちょっと皮肉ではありますね。

巣鴨で赤旗配布が仕事

裁判所側が保釈取り消しの手続きをしているすきに、同志たちに囲まれて裏門に出た貞子は、そこに待っていた自動車に乗る。着いた先は巣鴨だった。巣鴨は貞子と縁が深く、関東大震災で助けてもらった恩人宅、学生時代に下宿させてくれた級友宅、今回の潜伏先も巣鴨。ここは若夫婦が家主でシンパ(表立って活動しないが、陰での援助者)だ。部屋の小さい机で今村が赤旗の原稿を書いていた。当時の赤旗は非合法出版物で、共産党の機関紙である。貞子はこの赤旗を配布する仕事を与えられた。今村に厳しい口調で、「大事な仕事だから気のゆるみが重大なことになる」と言われたことで、<これで私も本格的な運動に加わるのだ〉と緊張し、重要任務が課せられ、信用された気持ちになり、あの日からずっと15番さんの件でもやもやしていた気持ちも吹き飛ぶ。潜伏先も巣鴨。貞子さんの大事な場面には巣鴨が登場します。

緊張の仕事

仕事は、繁華街の裏小路を歩いて、町人という感じになり、違和感を持たれないように。横を後から来た仲間の男が大股で貞子を追い越す。その先の茶店に同時に入店する。詳しく記されてないが、私の想像だと、いかにもアベックを装い席に着くのでしょう。サラっと他愛のない会話のあとに、貞子が持ってきた何十部の機関紙を包んだ風呂敷を、さりげなく仲間の男がテーブルから持っていき会計をする、その後貞子も一足遅れて店を出る。あとは互いに反対方向に振り向かずスタスタ歩いて行く。この仕事はその日の朝に今村から口頭で指令される。日により運ぶ場所などは違う。それが貞子の仕事だ。潜伏生活のため、母に連絡もできず、幼馴染みに伝言を頼んだこともあった。母は貞子が逃げた日、警察に娘の居場所を聞かれ、何も知らないのに留置所に一晩とめられ、弟が助けに行った話を聞いたが、どうしようもなく、暗い気持ちになる。このお母さんは肝の据わった下町女なので、警察でもひるまずに過ごしたのが凄いです。

蟹工船の小林多喜二のように

数日後の仕事で、上野御徒町の裏通りを歩いたが、来るはずの男に会えず、<捕まったのか、事故で遅れたのか〉と貞子は考えた。そのまま巣鴨のアジトまで尾行されていないか気を付けながら帰る。格子戸を開けたとたんに、中にいた男に突き倒された。またも築地署の特高芦田がいた。押入れの赤旗はすでに押収されていた。今村はどうなったのか。貞子は手錠をかけられ、巣鴨署に連行され取調室で芦田の前にひきすえられた。「今日の午後の連絡場所と時間、相手の目印を言え」と芦田は貞子の右手の人差し指と中指の間に鉛筆を挟み、ここから拷問というものがはじまる。あまりにショッキングな内容であるため、さらっと進みます。指を痛めつけても仲間のためにしゃべらない貞子。黙り続けると、衣服をみな剝ぎ取られ、裸の状態で竹刀や木刀で叩かれ続け、しまいには太ももから血が吹き出て、貞子は気を失ったと。この話が一番きついです。小林多喜二の『蟹工船』の世界は赤裸々に労働者階級について書いてある本。蟹工船を書いた小林多喜二も憲兵に無残に殺害されたことが私の中で重なりました。古来から人間は恐ろしい部分を持っているんだと。

留置所と優しい遠藤さん

意識が戻った傷だらけの貞子は、留置所の中で横になっていた。肌着も着物もなんとか着せられていた。額にはぬれ手ぬぐいがのっている。50歳過ぎの東北なまりの看守がそばにいてお世話をしてくれていた。名前は遠藤さんといい、常連の留置人から一目置かれる優しい看守だった。これを知ると少し救われる気がしました。遠藤さんは自分の泊りのたびに貞子に薬やガーゼを与えてくれたと。そのおかげで、太ももの傷も二週間で癒えてきたそう。遠藤さんの奥さんも夫に話を聞いて陰ながら貞子に優しかった。遠藤さん夫婦は子を亡くしているためか、24歳の貞子に親目線で助言してくれたりもした。貞子さんは、色んなピンチ時に人によくして貰える人徳なのかなと思ったり、いや、どんな時でも人の気持ちに気づける人なんでしょうね。共産活動も悪いことでないかもわかりませんが、法に触れてしまったのが運命を変えたというか…

夫の裏切りと絶望

あの拷問から3週目に、貞子は調べ室に引き出された。検事と芦田だけだったが、またひどい目に遭うかと固まった。貞子があの日会うはずの来なかった相手を、貞子は拷問に耐えてまでかばったが、他から聞いて捕まえたことと、貞子がなぜ捕まったのかを芦田はわざわざ知らせに来たのだった。「お前が捕まったのは、お前の旦那がしゃべったからだぜ。あの朝、電車の中で俺が見つけてつかまえたんだ。ちょっとかわいがったらすぐ白状してくれたよ」と告げられる。<そんなバカな…。鉄の規律に服しているあの立派な人が、私にとって、夫であり指導者であるあの人が…」貞子は呆然とした。留置所に戻され放心した貞子の青い顔を見て、遠藤看守が「またやられたのか」と声をかけてくれた。貞子は黙って首を振ったが、今度の疵(きず)は深かった。今村が自分を売ったこと、今村しか知らないことを警察が知りすぎているから。頼みごとをした幼馴染や母も警察に呼ばれたのもつらかった。裁判からアジトに来るまでに関わった人は何人もいたのに、誰も何も信じられなくなった。29日の拘留期間が切れて、もう一度市ヶ谷刑務所に戻された頃には、今までの気力や力がすべて抜けた、立ち上がる自信も。市ヶ谷刑務所には15番さんはもういなかった。信じた夫の裏切りにより、貞子は心が病気になった。酷い目に遭って血を流してまで仲間を守ろうとしことは肉体的苦痛を与えられ、一番信じた今村に裏切られた絶望は心身的苦痛。生きるのが嫌になったと痛感します。

懲役3年、執行猶予5年

その年の12月、再び公判が開かれた。この裁判には母の頼んだ弁護士が付き添いひっそりと開かれた。貞子の気持ちは母に伝わっていて、母も娘の刑が軽いことだけを願ってくれていた。傍聴人は母一人だった。検事は、公判廷から逃亡した罪は重いとし、3年の求刑をした。貞子もそれでもいいと思うが、弁護士は被告の当時の夫今村にそそのかされたものとし、情状酌量を願う。裁判長は貞子に心境を聞いた。「何もかも私の意思でしたことです。もう二度とこの運動をする気はなくなりました」と答える。その時裁判長は苦笑したと。『懲役3年、執行猶予5年』の判決がくだり、まもなく釈放された。通算1年8ヶ月の刑務所生活に終止符が打たれた。それから4・5日して貞子は京都の兄の家へ置いてもらうことになり旅立つ。共産運動は自分の意思でしたことは明確ですが、裁判の席でハッキリ言うところに、貞子さんの潔さを感じました。お母さんが娘の貞子さんをいつも守ってくれ、気難しいお父さんも歳をとり、貞子さんに優しく接したこと、兄弟も守ってくれたりと考えるとじんわりします。はっきり言って、この刑務所や裁判の内容がありすぎて、濃すぎて、辛くて悩みましたが、この内容を割愛するのは、大好きな貞子さんに失礼だと勝手に思い、思いを込めて文章にしました。

 

 

 

 

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました